三島小学校御開山分校跡 薩摩藩島津氏所縁の寺院
6月27日、梅雨前の晴天が続くので、先般、行きそびれた御開山小学校跡を探索に出かけた。
今回は、城川町魚成川伝いに野村町に向かい、桜が峠~土屋トンネルを抜けて鬼北町に下っていく三番目のヘアピン手前から林道に入り、御開山を目指した。
トンネル手前で一台のバイクとすれ違う。
ヘアピン手前を左折、林道に入る。
K100RSだとチョット走りにくいところが在る。
竹秋の頃なので、一面竹の葉で覆われたところも在る。
一台のカブとすれ違う。
御開山に到着。
ここまでほぼ二時間かかった。
先般会った老夫婦が作業しているのが見える。
龍天寺廃寺跡に行く。
前回、確認し損ねた島津氏の家紋を確認した。
前回は、島津氏所縁の寺とは知らず、このあとにお話しを伺ったおばさんに知らされたのだった。
明治の刻印があるってことは、廃寺になったあとで奉献されたと言うことになる。
おばさんが家の前の石垣に腰掛けて休んでいたので、会釈をして通り過ぎる。
ここは御開山の南東部で、雨水はここまでの平坦部のあと、南に急斜面を下って下大野の谷筋を流れるのである。
分校跡を求めて下っていく。
一箇所、それらしいところがあったが、違っていたので更に下っていく。
左手、山側に廃屋らしいものがちらりと見えた。
バイクを止めて、雑草、笹を掻き分けて入り込んでみた。
門柱らしいものがあった。
タイル(?)に書かれた文字は、多分「御開山分校」であろう。小さい文字は「三島小学校」と思われる。
玄関口はかなり傾いている。
建物の中央部は倒壊している。
何か、学校のしるしを探したらあった。
玄関の左側の部屋。
何の部屋だろうか?
次にここに来る時は、もうここまで入り込まないだろう。
この杉林の向こう側が学校だった。
この少し平坦なところが運動場だったのだろう。
御開山の集落から2km。
何故、こんなところに建てたのだろうか>
御開山の平坦地は、作物を植えるためにあって、学校どころではなかったのか・・・・。
分校から300mほど下ったところには坂立の集落がある。現在は2世帯だけと思われる。
更に下って奥組集落があり、現在は10世帯くらいあるようだ。
前回はこの道を上って行ったのだが、気になりながら写真に撮らなかったのがこの橋だ。
昭和27年施工の刻印がある。
私がまだ一歳になる前だ。
この谷を上って一山越えた先に御開山はある。
下大野上組にあった神社。
河内神社。
真新しい鳥居。
前回、気付かなかった。
ストリートビューでも陰になっていて全く映えない。
昨日は、太陽が良い位置にあって、朱塗りの鳥居が美しかった。
大事にされている神社のようだ。
320号線に出て日吉村道の駅でトイレ休憩。
相当汗をかいたので、出るものはあまり出ない^^;)。
「懐かしいバイクですね。友達が乗っていて格好良かったです」
おっさんが話しかけてきた。
ここから城川~大洲~長浜~下灘のいつものルートで帰る。
時間的に余裕があったので、予定通り、城川の龍澤寺に寄ってみることにした。
まさに巨刹である。
本堂までは行かなかった。
本堂の島津氏家紋を撮影したほうが良かったかな?
まあ、
次回のお楽しみ。
この谷の奥に龍澤寺。
山の向こうが御開山、龍天廃寺跡。
魚成川段丘の水田地帯。
魚成はここを治めた豪族の名前から取ったのだろう。