【いろは丸に乗り合せた男】 君は豊川渉を知っているか

君は豊川渉(とよかわわたる)を知っているか 【いろは丸に乗り合せた男】
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<伊予市郷土文化シンポジウム>
幕末から明治の激動期
郡中と豊川渉の足跡
11月3日 13時30分~17時
伊予市灘町「彩浜館」
パネラー
篠原 友恵   『豊川渉の思出之記』編者 渉の曾孫
柚山 俊夫    愛媛県生涯学習センター 研究科長
内田 九州男                      愛媛大学名誉教授
澄田 恭一                         大洲史談会理事
コーディネーター
武智 利博
 
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豊川 渉
弘化四年(1847)~昭和五年(1930)
幕末、大洲藩から土佐藩が借り受け、阪本龍馬の海援隊が運用した
「いろは丸」に乗り組み、
その沈没に至る『いろは丸終始顛末』をのちに綴った。
明治35年(1902)に郡中町の五代目町長となり、
明治37年(1904)には松山収容所のロシア人捕虜たちを、
明治42年(1909)には初代内閣総理大臣伊藤博文
彩浜館で歓待した。
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篠原友恵さんの父は望月宏(もちづきひろし)といい、豊川渉の資料
を色々集めていた。
 
は昨年末、91歳の誕生日を迎えた直後、高血圧による眼底出血のため
視野のほとんどを失った。
意気消沈した父・を励ますため友恵は活字化されていた
「思出之記Ⅰ」
を本に(出版)しようと提案して、作業を開始した。
友恵さんはパソコンインストラクターで
今日的機器を縦横に駆使
三月末の尊父逝去後、半年で出版に漕ぎ着けた。
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はクリスチャンで、賛美歌404番の「山路ゆきて」を作詞した
西村清夫(すがお)師
と懇意であったらしいという。
は死の床で友恵の用意した404番のCDを聴いて
「ほけつとうげ、ほけつとうげ・・・」
と、うわごとの様に言っていたという。
「ほけつとうげ」は宇和町から宇和島に至る越境の「法華津峠」である。
 
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これは長くなりそうなので、途中省略
 
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肝腎なことを忘れていた。
豊川 渉-----村上 輝

                       豊川 アキエ-----望月 憲磨
                           |
              @@ 令子---望月 宏
                  |
篠原 @@---友恵
 
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豊川渉は19歳の時、いろは丸に機械油脂見習いとして乗り組む
二年後21歳の時、いろは丸衝突沈没事故に遭遇
は所謂「記録魔」で、多岐にわたって詳細な記録を残した。
鍋島藩佐賀藩)は長崎警備を担当していて、長崎を出入りする船を
記録していた。
その中に所属不明の鋼鉄外輪船図絵があったが、の記録にある
「赤地ニ白ノ蛇ノ目ノ旗」
という、いろは丸の説明により、図絵の船の名前が判明した。
以下、略す。

【余談】
篠原友恵さんはとてもチャーミングな方でした
母上はイラストが得意らしい
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所々敬称略す
 
しかし
豊川渉といい
望月宏といい
篠原友恵といい
時代から浮き上がったお名前というか
 
ファンタスティックな一族
 
そんな気がしました・・・・・・・・・って、どこを見ているんだ^^;
 
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