洲之内徹と現代画廊

イメージ 1昨日、エグザンティアの修理が終わったと連絡があったので、のど自慢が終わった後、自転車をこいでディーラーへ行った。
ディーラーではエグザンティアのセダンが修理中であった。定番故障のLHM漏れ!シングルカムの初期型だった。
愛媛には少なくともセダンが3台はあるみたいだ。
うれしい^^)。
 
自転車を積み込んで、県立美術館へ向かった。
駐車場が満杯なら、久万町美術館へ変更しようと思ったが、行ってみると順番待ちの車は居ない。
10台分は余裕があったようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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前売り券を買っていた。イメージ 3
 
展示は一階の展示室のみだった。
 
毎度のことだけど、展示室は暗い。
作品の劣化を少しでも少なくしようと照明が限度まで落とされているというか、これじゃ「見るな!」といわれているようだ。
 
 


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海老原喜之助「ポアソニエール」は無かった。
久万町美術館の方なのか、やっぱり。
しかたないので、売店でポストカードを求めた。
ここで展示しても、鮮やかな色彩は拝めないかもしれない。
 
いや、あの暗さの中で尚 
 光彩を発するのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
もう一枚のポストカード
古茂田守介「少女」
実際の展示は煤けたような暗い画面で、
作品名プレートを見て、ようやく少女の絵らしいことが分かる。
 
だんごっ鼻なんだけど、少し「いわさきちひろ」に似ている。
 
もし、この展示状況を古茂田守介がみたらどう思うだろう?
洲之内徹ならなんというだろう。
 
 
 
 
 
 


ところどころに貼ってある、洲之内の評論文に興味深いものが多かった。
シャーペンでメモしていると早速館員がやってきて
「鉛筆しか使ってはいけません、こちらを使ってください、返却不要です」
といって、アンケートなどを書くときに渡される、クリップつき鉛筆の芯を渡してくれた^^;)。


一枚の絵を心(シン)から欲しいと思う以上に、
その絵についての完全な批評があるだろうか。
*
*
二十年あまり絵の商売をやっていて、その間に、どうしても手離したくないものを
手許に残していった(・・・)
そういう絵は、絵としていい絵だと私が思ったという、それだけではない。
(・・・)
いうなれば、私はその絵を私の人生の一瞬と見立てて、
その絵を持つことによってその時間を生きてみようとした、
そういうことなのである。


蒐集家と批評家、あるいは、目利きと批評家
洲之内徹は目利きを批評家より一段上の存在としている。
自分はどちらと思っていたのか?
たぶん、両方とも自分だと思っていたに違いない。
 
さだまさしの歌に、・・・むにゃむにゃ^^


読んでいて、どこかで聞いたような文章だ。
オーディオ評論家の瀬川冬樹さんが書きそうな文章。
瀬川さんは当然「きまぐれ美術館」を読んでいただろう。


展示されていた木下晋の鉛筆画
 

白髪が何本も描かれているのだけど、黒い鉛筆でどうやって。


洲之内はいろいろなものに溺れたといっているらしい。
ジャズにも溺れている
と書いている。


久万町美術館へ行かなくては。